タダでもいらない。
数は力だ。
という論理で、作ったアプリをダンロードしてもらおうとシノギを削っている。
無料でダウンロードは、もはや当然である。利用者が増えれば、広告や課金システムを使って利益を出せるからだ。
iPodが登場した2007年は、少なかったアプリも現在は検索しないと分からないくらい。
「お、面白そう」と、ダウンロードしたアプリがクソアプリだったりは日常茶飯事だ。
それでも、僕たちは役立ったり面白かったりする『お得』な製品を探している。
開発者たちは、新しい切り口を探し続けている。
「これはすごい」と、思ってもらえる神アプリだ。
問題は、ここにもオーバーストアが発生していることだ。
いまは、アプリが多すぎるのだ。
「書きたい人ばかりで、読みたい人がいないんだ」と、友人の編集者Mが言っていた。
久しぶりに居酒屋で飲んでいたときのことだ。
「小説の新人賞募集が載ってる雑誌が売れないのに、新人賞の応募が山ほどくる。もはや、雑誌に応募券をつけたいくらいだ」と、Mは言う。
「新人賞も、本を売るテコ入れだろ?」
「そうだけど、本は7割赤字だよ。ひどいもんだ」
「本を読んでた人は、どこに行ったのかな?」と、僕が言った。
「スマホでTwitterとかしてるんじゃないかな。それかゲーム」
そう言うと、Mはビールを飲み干した。
本は素晴らしいと思っている。
自分ができない体験や、知識、古い歴史が、詰まっている。
僕だって、小説やコピー、ブログを書いたりする発信側だけど、活字中毒のように本を読む。古い人間なのかもしれないけど。
Mが言う「本が売れない」は、実は間違っていて、いままで売れすぎていたのではないか。と、最近思うようになった。
明治、大正時代には、今ほど本は売れなかったのだ。
大量に売れだしたのは、ごく最近である。
明治時代に少年ジャンプはないのだ。
ネットの登場で、発信するハードルが下がり、本や雑誌の役割も下がったのだろう。
アプリの氾濫は、明治から現在の情報発信の流れが、数年で一気に起こった現象だと思っている。
情報発信の方法が、いっきに多様化し加速している。
それがいいことなのかが、分からないでいる。
大量の資金移動が加速しているのも関係していそう…。
文:紙本櫻士
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